典明記

典明により典明記
INTRODUCTION

1942年2月22日 愛知県名古屋市生まれ。

戦争末期、名古屋も軍需工場が沢山あって空襲が連日であった。
空襲となると町内会で作った防空壕にサイレンとともに防空頭巾を被り逃げ込む、親達の興奮が肌を通じて伝わって来る。
三歳半になっていた私には映像としての記憶があって住んでいた中村区の西米野から則武の方をみると暗闇の中B-29爆撃機が探照灯に照らされ黒煙を引き錐揉みし乍ら真っ逆さまに墜落して行くのを鮮明に覚えている。
伯母と従兄が爆撃の最中逃げ惑い死んでいる。
妙な事を言う様だが、遺伝子の中に性格が含まれるとして私の生まれた昭和17年と言うのは開戦2年目で国全体が、あの史上最も阿呆なメディア・大本営発表・に踊らされ戦意高揚なる衆愚が充ち満ちた中、母の卵子に父の精子が到達して私が有るのだが、思想的な問題でか父には赤紙が来なかった。
何れにしても反戦論者だったにせよ時代の空気は父母に充分あった筈で、ともすると攻撃的な私の性格の素因の一つは、アノ時代にあったのではと考えたりする。
3つ年上の兄は人一倍温厚な人柄で、同じ父母とも思えない程正反対の性格で、会社勤めを38年勤め上げた石部健吉のような人物故もあるかもしれないが。

父、加納豊明の影響を強く受け育つ。
長野県木曽福島で木曽川沿いに旅館業をを営む家に生育した豊明は、読書家と同時に絵画の才を持ち合わせ青年期にはマルキシズムを主体とし同郷島崎藤村{以後敬称略}にも傾倒し長野と云う風土と時代が藤村の著作に有るように貧困と差別に青年らしく問題意識を強く持ち、自身の絵画への希求心からも東京に出るべく芸大の前身・東京美術学校・に進む。
生前の藤村にも会った事が有ったらしく、藤村の座した姿のスケッチが残っている。

時代はコンミュニズムが心ある青年達の理想郷とも写り埴谷雄高を始め哲学・文学・社会学・等広範な知識人・労働者を巻き込み革命を目指した社会運動が豊明の生きる東京のグラウンドとなり、うねっていた。
勿論日本共産党が運動の表にも裏にもなっていたのは自明で豊明も党員だったように聞いた覚えがある。
当時色々な芸術家を主体とした団体・日本プロレタリアアート作家同盟・プロレタリア文学者中野重治らが運動した団体にも参加し、団体・ナップ・コップ・の話しを夜な夜な聞いていた。トロツキーがメキシコで暗殺されたことや、スターリンがヒットラーより遥かに悪質であるかとか、何故か突然上っ面な再生をしている・蟹工船・の小林多喜二の話し等はよく聞いた。
ご多分に漏れず中高生時代の反抗は随分としたが、何故か夜中に絵筆をとる父の話しには耳を傾け、結果的に親子であんなに会話が有ったのは珍しいと言える。
其の二人の話しを縫い物をし乍ら母が後ろで聞いていた。
私はDNAと云うか資質としては決して左翼的とは言い難いが、父豊明のからの社会主義構造論は私の人生に振り子のように又メビウスの輪のように影響し、意識下に潜り込んでいる。


以下の私の履歴は些か常人の価値観・世界観とは違い、其れこそマジかよと云う様な事毎の日々でもあり、詰らぬ常識を持ってして受け取られないよう望みます。
写真を盾にエネルギッシュに生きて来た男の旅です。

EPISODE
1960年

名古屋市立工芸高校・産業美術科卒業。名古屋在住の商業写真家 故小川藤一に師事し助手となる。
此の約1年の助手時代が後年の写真家としての素地をなす。
日々5、6時間は暗室に籠りアルカリと酸の饐えた匂いの中の作業は指先が茶色に変色し、指紋も消えかけていた。


当時4×5のカラーの現像を個人で出来る写真家は東京にもそうは居なかった筈だ。
コダックのE-2、E-3を使い、ノリタケチャイナの磁器の白い肌感等見事に再現していた。
単に化学物質でしかないフィルムに肌を通じ感情めいた思いが生じ、感覚が写真化していった。
以後東京と云うグラウンドで写真をやればやる程、この小川藤一の技術を体得したのが生きた。
如何に若い修業時代が重要かと云う事で、此れが備わっているか居ないかに寄って写真の展開が大いに違ってゆく。

1961年

東京に出るべく写真家 杵島隆の門を叩く。
モノクロ6×6で撮った静物写真を持参した折、偶々居合わせた杵島と同郷の日本デザインセンター写真部長鈴木恒夫が写真を見て、『今時の若者にしては中々の技術とセンス』と進言あり、先輩助手が4、5人の中に加わった。


杵島スタジオでは一線で活躍するグラフィック、ファッションデザイナー・モデル・女優・役者・編集者・等々の才能が出入りし、刺激的な日々の中日一日と写真が肉体化ていった。
助手時代に・APA・日宣美賞・朝日・毎日・等の広告関係の受賞歴。
グラフィックデザイナー 故浅川宣彦、当時講談社女性セブン誌編集者、コピーライター秋山晶に酒の世界を覚わる。
助手時代にライトパブリシティー・アートディレクター細谷巌に依頼され、松本清張著作「連環」の新聞広告の写真を撮りに千葉の鋸山に独りでロケをし細谷に褒められ嬉しかったのを覚えている。


杵島スタジオの杵島隆が撮影する以外の小物を始めとする撮影の殆どを撮るようになっていた。
およそ賞とか団体等には意味も興味も持たなかったかったが、友達付き合いでの賞でBIGだったのは日宣美賞でグラフィックデザイン・広告業界の芥川賞とも云え、若いデザイナー達は年に一回の公募に一生懸命だった。
私は前年に続き小西啓介、長友啓典に写真の立場で手伝っていた。


前年準入選もしなかった水着のジャンセンをテーマにポスターを作っていたが、小西はモノクロの写真を使っていたが長友はなんだか上手く行かず、私に、『加納そう云えばアノ紙まだ持っているか』と聞いた。
前年にも小西にも長友にも又故山田理英にも見せて、コレ使わないかと言っていた紙、蛍光インクのペーパーである。
真夏の太陽のギラギラ感よろしく真っ赤な蛍光インクペーパーに私の撮った砂浜の波打ち際に水着姿で立つ、当時スタイリストだった女性をシルエットで写した写真をグレイのシルクスクリーンで刷ったものだった。
其れが日宣美賞。
小西のモノクロは特選とあの年は上手く行った。
後年山田理英が随分とあの年俺にも言ってくれたのになと悔しがっていたのを思い出す。
当時サイケデリックの走りと云うか気配があって蛍光色もブルーライトもレーザー光線も写真に取り込んでいた。


当時の霞町今の西麻布は、都電も走り砂利道で事務所には長浜治も同居していてやはり高校の同級生下里幸夫も出入りしていた。
事務所は真っ赤な壁に濃いめの紫の絨毯の部屋にはマリリン・モンローの蛍光色のポスターを張り、其れにブルーライトを当てて照明としていた。
再来年にはオリンピックが近付いていた。

1963年

典明21才でフリーとなる。文字通り徒手空拳の旅立ちで仕事の目安等ゼロであった。
借金をしハッセルブラッド一式と中古のエメラルドグリーンのMG=Aを手に入れたが、仕事が碌に有る訳ではなく、MGは1年と持たず売却。
此の頃から車好きの癖は今日迄続いている。
MGがHONDA250スクランブラーのバイクになり、後にHONDA・S600やS800のスポーツカーになりミニクーパーやロータス・ヨーロッパ等々終わりの無いバイクと車の遍歴がはじまる。


S600エンジンの9000回転辺りの面白さは忘れない。
東名高速道など出来る以前の話で名古屋に暮れに帰郷する時等渋滞した国道一号線を並んでノロノロ行く左車線を尻目に、右車線を9000回転よろしくぶん回しすっ飛んでいた。
危険な事再三でよく生きていた。
ある夜だった。箱根をMGーAで走っているとモーガン+4が追い越して行った。何をとばかりに追い掛けレストランに止まったモーガンの乗り手が誰だか確かめた。
当時モーガンなんてスポーツカーは知ってはいたが実車は初めてだ。乗っていたのは髪フサフサのロン毛のミッキー・カーチスだった。バリバリのロックンルーラーだ。
写真はと言えば雑誌の活版頁や会社案内のパンフにカタログの物撮り等何でも撮っていた。
あらゆるタイプの写真をこなせたのは、名古屋助手時代の基礎がしっかりしていた事に他ならない。
23才で小学生5年生からの彼女と結婚。

1967年

アサヒカメラに掲載した「テオ」が、当時、平凡パンチの編集者だった直木賞作家西木正明の目に止まり、パンチでグラビアをと考えていた。
同時に典明の飲み仲間だった矢張りパンチの編集者だった椎根大和からもヌードを撮らないかと誘われていた。
当時の典明の価値観に平凡パンチは社会に害毒を流す雑誌にうつり、最初は断っていたが椎根の重なる誘いに、2・3本撮ってみるかと典明ヌードが始まる。


パンチもプレイボーイも其れ迄のグラビアヌードはどちらかと言えば泰西名画の延長ではないが、如何に女体を美しく撮るかと云ったタッチで刺激的とは程遠かった。


時代はヴェトナム反戦運動、60/70年代安保闘争、ビートニック・サイケデリック、ヒッピー、ビートルズ、フラワーチルドレンと混沌としていた中、若者達も今の若者とは桁違いの青年期の活力を持っていた。反体制を明確に言葉と行動に現していた。
何を意識した訳でもなく何本か撮ったヌードが嘗て無いイメージのヌード写真と受け取られ平凡パンチと典明の発する一種の反旗は、時代が生んだサブカルチャーとも云えた。
其の頃の典明に有ったヌード写真への意識は、写真雑誌で後生大事にアートとして撮るよりは、週刊平凡パンチで読者が典明ヌードの頁を見開いた瞬間に読者のダルな日常が消えるような凍結するようなショックをインパクトを与え、一週間経てばドブに捨てられる写真が最も時代にドスを突き付けるような写真行為であり時代者だと云う思いだった。
写真の美とかアーティスティックな事など二の次で、あくまで写真は時代に物申し切り裂く道具であり方法論に過ぎなかった。 

1969年

平凡パンチ編集者石川次郎イラストレーター小林泰彦とパンチ、ニューヨーク特集号を作るべく初のNYに飛ぶ。
1ドルが360円の時代である。
当然とはいえfirst NYは刺激的で此の旅が典明の人生を左右したと言っても過言ではなかった。
先ずパンチのヌードグラビア頁の為、白人黒人モデルをNYの目立ったシーンで撮ろうと云う事で、ウォール街、ブルックリンブリッジ、セントラルパーク、ハーレム、エンパイアステートビル、地下鉄、果てはNYの上空をセスナ機を低空で飛ばし、機内にヌードモデルを横たえモデルと一緒にNYの夜景を写し込むなんてのも撮った。
操縦士が撮ってる後の席が気になって仕方が無いのか何度も振り返るのをコラッ前向いて操縦しろと怒鳴ったり。
ハーレムの夜は今と違い可成りヤバかったし、次郎が通りがかりの女に声を掛け話を付け女の部屋でヌードを撮る。
ブルックリンブリッジでは朝早く走ってる人や仕事に急ぐ人が行き交う中真っ赤な絨毯を敷いてヌードを撮る。
ウォール街のランチタイムに一番人通りが多い交差点でビジネスマンが行き来する中、連れていたコートの下は何も来ていないモデルをど真ん中に立たせ、合図と共にコートを脱がせた。真っ昼間の事だ。行き交うビジネスマン達が驚きとともに色んな反応を示し乍ら過ぎて行く。


35mm2/3本をあっという間に撮り、待たせてあったポルシェ356のオープンに飛び乗り消えた。ゲリラ撮り極まれりだった。
あれは何丁目だったかな、可成り下の方ダウンタウンでバイクのギャングと言うか、ヘルスエンジェルスをロケハン兼ねて見に行った時に丁度LAから移って来た女が彼等の仕来りなんだろう15・6人は居たろう男達に回されていた。
ヘッドらしいのが次郎と私にお前達もヤルかと聞く、いくら何でも遠慮申し上げた。
後に高校の同級生写真家長浜治が彼等を撮った。


パンチの取材が終わり、石川達が帰り日本の画廊に約束していた写真を撮る段になり、あらかじめ日本から何を撮ろうと決めずにいて、あくまでNYで感じた世界を撮ろうとしていた。
NYに在住していたカメラマン、タッド若松にコンタクトして話しているうちイーストビレッジで草間弥生ってパフォーマンスを時々しているアーティストの話しに惹かれ会いに行った。
当時アンディ・ワーホールもそうだったが、色んなパフォーマンスやイベントの為に必ずしも専用と云う訳では無いだろうが、多数モデルを持っていた。と言ってもモデル然としてと云うより草間やワーホールの考えに集まった人達と思える。
草間は独特の話し方をする目付きに特徴のある女性だった。
タイミングだったのか私の撮影のためパフォーマンスとしてオージーパーティをやってくれるという。


ヴェトナム戦争もアメリカは泥沼から抜け出せず北爆は苛烈を極めていた。
ヴェトコンが空から見ると森林にしか見えないカモフラージュをするのを空撮で本物の森と偽の森と見分けるためにコダックに赤外線のカラーフィルムを作らせ、丁度そのインフラレッドのフィルムがNYで売り出された。
乱交パーティは文字通り男女が入り乱れ草間が男に女に水玉を塗りながら歩き回り彼方こちらとSEXが繰り広げられる。
熱くなりながら(何だ此れは)と思いつつ赤外線フィルムを混ぜながら撮りまくる。
其れ迄にあったSEXのイメージと云えば、四畳半襖の下張りではないがこっそりと湿っぽく人知れずひたすら隠密裏に精神の深奥事といったものだった。
其れがNYの連中ときたらパフォーマンス等々とは云え丸でスポーツしている感じで衒いが無い。
眼前の事毎の善し悪しを意識する間もなく目の前の景色は、世界は、具体は、否も応も無くショックとともにインプリントされた。 


後に草間のメンバーを始め何回も撮った。
SEXのサドマゾとか異常界は別として、男と女、男と男、女と女、各黒人と白人、と考えられるパターンを撮った。
今や世界的アーティストとなった草間弥生のNY時代のセントラルパークでのパフォーマンスの写真に写っているモデルに見覚えが有るのが何人かいる。

35mmのフレームの三分の二位に黒人の勃起したペニスが有り、其れを白人の男が銜えている写真や、カラーのインフラレッドフィルムで撮った白人の女に黒人の男が乗っている写真は現像してみると、女の白い身体が鑞の様な白さに写ったり白人の男がマッシュルーム頭でキスをしているのだが撮影の時に二人のブラウン色のヘアーだったのが現像してみると二人の頭は深紅であった。ウィッグか毛染めでもしていたのか。
フッとベトナムが頭を過った。


2ヶ月近く居たろうかNYでの撮影も終わり、付き合いのあったジャズシンガーが来ていてタッド若松の運転するジャガーEタイプの助手席に彼女を抱いてロングアイランドにドライヴに行った。
海浜の湿地に鴨の親子が連なってヨチヨチと歩いていたのが印象に残っている。
此のNY行の時知り合った色々な人に典明はフィーリングがNYにぴったりだよ、こっちに来いよと何度と無く言われ正直迷った。
既に長女が二歳近くなっていたのと今と違いNYへ移住というのはそう簡単な事ではなかった。
其れでも時に付け、若しあの時NYに行ってたらどんな今日が有っただろうと、タラレバとは云え想いが過る。
そのNYを後にロンドンに行きサイケデリック真っ盛りの街角で写真家鋤田政義に会った。
T-REXとデヴィッド・ボーイを撮りに来ていると言っていた。



其の1969年の暮れだった。
個展「FUCK」が日本橋でオープンした。
翌日に私は世の中デビューし有名人となった。
前記したようにNYで撮った性をテーマにSEXのあらゆるパターンを網羅していて、男女、男男、女女、其の肌の違い、黒人と白人、乱交、等等を本来はカラーも赤外線カラーもモノクロも有ったのをわざわざコピー用紙のA全だったかに全てモノクロコピーにして展示した。
実はこの「FUCK」の前に一度だけ秘密裏に極親しい仲間にほんの少しの編集者を呼んでカラー写真をダイレクトに見せた。
沖縄アクターズスクール校長牧野正幸が六本木の俳優座の横の地下で、マックスホールと云うジャズクラブをやっていてピアノ世良譲にドラムとギターは時の売れっ子を呼び、シンガーは専属歌手として笠井紀美子が歌っていた。
小さいが集まる客も雰囲気も格好良かったな。
其のクラブのグラウンドピアノの上にプロジェクターを2台並べ、壁に貼ったケント紙に到底個展では出せないような写真も全て見せた。
終わって少なからず皆興奮して見えた。
故坂本九やカメラ毎日編集長故山岸章二はじめ、牧野が声を掛けたのか知らない有名無名の顔が集っていた。


日本橋のディックピルの展覧会場のインテリアは故倉又史郎がやってくれ、出来たばかりの親指程の大きさの光量がビックリする程明るい電球1灯で会場全体を白い布で覆ったのを照らし此れ又面白かったな。


展覧会は「FUCK」と云うタイトルにつられたのか外人も結構入った。
桜田商事もやって来て2、3枚を外すようにと指定していった。
其の時は外したが、考えてみると指定すると云う事は、検閲に相違なく違法でこちらに知恵が無かったと云う事だ。
そもそも個展にこんなやり方が出来ないか調べたのに、丁度歩行者天国なる訳の分からない制度が出来た時で、銀座や新宿に渋谷に池袋と歩行者天国を歩く家族ずれやカップルの真上をセスナ機で飛び、キャビネ版に焼いた其れこそSEXのあらゆるパターンが写った写真をビラのように空から撒き、ノホホンとダルな日常を歩く人々に突然の非日常をプレゼント。其れが私の個展と云うわけだ。
だが航空法違反に公序良俗と私独り桜田商事に行けばよいと云う話で済む訳が無く、諦めた憶えが有る。


写真展「FUCK」は芸術新潮、カメラ毎日等々に載り結果的にと云うか当時の時代背景がタイミングだったのか、人種差別や性差別を表現していてメディアは挙って私を時の人とし追い掛け始めた。
何とはなしに、世の中って結構簡単だな、って想いがしていた。
26才のガキの思い上がりにしてもだ。
その上、名が出て行くに従いお姐さん達が機関銃の弾丸のように飛んで来て避けようにも避け切れない日々が続き、仕事と酒と女のジャングルに迷い込んで行く。

1970年

此の年から何を勘違いしたのか色々なジャンル・メディアから時の人と云うかオピニオンリーダーと云うか、アレをやってみないかコレに出てみないか等々、一写真家の枠を超えた話しがやって来るように成る。
写真は勿論真ん中に有ったが、余程馬鹿げてない限りあらゆる話しにトライした。


先ず来たのがTVで当時全盛期と云うか大橋巨泉がMCをしてた11PMだった。
殆ど準レギュラーな立場でいた。
ベッド体操と言うコーナーに出ていた後に自死する若林美宏を何度か写真にした。
11PMで最初の頃だったか完璧お山の大将だった巨泉に話題は忘れたが、貴方然ういう事言ってるから駄目なんだよって食ってかかり、其れがその日だったか帰りに新宿行きつけのバー・ナジャ・で皆に良く言った典明と言われたのを覚えている。
体制反対性の時代、皮相文化の体制派代表のひとり大橋巨泉にである。
かく言うのはナジャに集う人間と言うのがアンダーグラウンドの旗手達と云うか殆ど反体制に属する人達で、土方巽、寺山修司、唐十朗、金子国義、四谷シモン、東由多加 等、今からするとガツンと己に筋の通った他に等しき人は無しといった彩り満点の人達で、夫々が夫々の際を生きている匂いが、気配がしていた。
其の中にいて文化的チンピラ典明は、何故か気持ち良かった。
よく酔っぱらってど突き合いも日常茶飯事だった。
カウンターの中ではゲイのヨシオの隣でママのマリコが椅子も無いのに座った感じで居る。
カウンターの中を覗き込むと・家畜人ヤプー・の沼正三が四つん這いになってマリコの椅子代わりをしている。何時間もである。
家畜人ヤプーの出版パーティが銀座のクラブで有った。
忘れないのは、会場の中程に西洋便器があって、便座は勿論あるのだが下の便器は無く男だったが便器の下側から上を向いて口を空けている。
其の便器に女が尻を捲りシャーっと放尿する下の男は其れをどくどくと飲み込んでいる。
唖然とするしか無かった。
最近矢張りナジャに出入りしていた萩原朔太郎の孫萩原朔美が、沼正三や土方巽の事を「劇的な人生こそ真実」新潮社刊で著している。


今は無き中央公論社の純文学月刊誌「海」の編集長 吉田好男が、映像を仕事にしている人間に小説を書かしてみようと云う考えが有ったらしく、後に私がナジャで酔っぱらっている最中に小説を書いてみないかと言われ、どんな話しが欲しいのと聞くと、梶山季之や川上宗薫的な物という、酔っぱらってる私は、ああヤリ話しね、いいよと答えていた。
海誌・目次に寄ると、新鋭カメラマンの第一作、文字で現像したポルノの奧に潜む華麗なる空しさ「オ××コ」を書く事になる。


とまあ20代後半の多くをナジャと六本木のマックスホールと青山3丁目のイラストレーター宇野亜喜良の妻宇野マリがママをしていたマリーズショップを渡り歩き、夜を暮らしていた。
ナジャに集う人達は今時の薄墨みたいな人間擬きと違い各々が色濃く個性を有していた。


この間TVで歌舞伎の市川海老蔵がロンドン公演で宙吊りするシーンでアレコレやっていたが、見ていて思い出したのはナジャの客人の一人土方巽が新宿アートシアターで公演したのを、土方が宙吊りで観客の上を舞台から入り口に向かって宙を行くのだが、身体の胴を何かで上から吊るのでは無く、手足に夫々ロープを結び其のロープを四方から引っ張らせてゆっくりと観客の頭上を行く。
一体全体どういう筋肉と関節を持つ躯なんだ劇場が無音で息を呑んでいた。

1971年

元々、助手時代に広告写真は手掛けていた。

広告は勿論、雑誌・イヴェント等々の写真仕事にTV・ラジオパーソナリティー・映画出演・TVドラマ・小説・エッセイ・公演・LPレコード・等々多種多様な、何処から仕事で何処から遊びなのか判然としないのも含めやって来た。

第一に写真以外のメディアと云うのに興味が有った事、他のメディアの人達がどんな想像力を持っているのか、其の人達がどんな人間なのか興味があった。
常々何事も、其の現場のシステムに身を置かなければ本当には解らないと云う考えが有った。

実存主義よ、身体張ってなんぼだよと冗談言ってたが、犬も歩けば棒に当たるじゃないが行けば行っただけの事はあって直接写真に何かと云う事では無かったが普通じゃ知り得ないような事毎を重ねて行った。

 

雑誌「平凡パンチ」は当時若者の文化を知るには飛び抜けていた。広告の電博にはテキストにもなっていた筈だ。
パンチの巻頭ヌードグラビアは結構な数を撮ったが、若く時流にも乗り人一倍エネルギー過剰な私の撮影現場はまあ大変な事が多々であった。

あれは直木賞作家「西木正明」がパンチで私の担当の1人だった時の事。
当時ヌード写真のヘアーは非解禁で撮れなかった。本質的に2010年の今日も大差ないが表現の自由云々からすればおかしな話しが続いている。
撮影は伊豆半島の先端辺りだった。

撮れないとなると否が応でも撮れないか、なんとか・・・。

最初は小さな湾でプールの様に波風無く平穏な海面を見ていてイメージが沸いた。

空に向かい水面に浮かんだ裸のモデルを水中から色の付いたストロボを炊き、遅い午後の海面に裸を際立たせようと・・・

しかし水中ストロボは持って来ていない。
助手に透明のビニール袋を買って来いと命じ通常持って歩くナショPというプロ用のストロボに5枚位だったかビニール袋を被せ、ストロボとカメラを繋ぐコードを一本5m位なのを3・4本繋ぐ。
さらにストロボ本体と厚さ8cm縦横20cm程のバッテリーを是又ビニール袋に包み、其の2つをゴムバンドでギリギリ締め上げ水が入らないようして助手にモデルの浮く海面下5m位に潜れと命じる。

勿論ダイビング用のスキューバ装備等もっていない。 ダイビング用の重りも有る訳もなく、其処等に転がっている40・50cmの石を一緒に持って潜れ、と言う訳で潜水の経験もない助手には泳げたにせよハードだ。
何れにしてもコードの繋ぎ目やストロボへの水の侵入は時間の問題だ。其れ迄に助手の頑張りと共にイメージしたものが撮れるか・・・。
今の私だったら同じ状況で同じイメージが浮かんだとしても多分やらないだろう。

当時浮かんだイメージは何としてでも誰がなんと言おうと、絶対撮る、と決めていた。と言うより撮影時の衝動の強さは時に異常とも云えて周りは大変だった。

 

次の日、裸足の足では歩くのが辛い、5m位のギザギザの岩肌の岸壁を海に向かって飛び出し反転して岸壁に立つ私に大の字になって落ちて行く瞬間をほんの少しブラし若干引きの写真で正面から全身を撮った写真― としてもヘアーが矢張り写り込みそうで迷った。

結論はモデルにヘアーを剃り落とさせるしかない。
西木に相談すると、一瞬小さく笑って、話してみると言った。
西木曰く、西木が仕向けた訳では無いだろうが、加納が剃ってくれるなら剃っても良いと言ってるよと言う。
今と違い常識もモラルも未だ未だ保守的で海外の情報もそんなには多くない時代、ヌードの撮影とはいえ女が陰毛を剃った写真は見た事ないし自分のやってることを一瞬だが思った。しかし浮かんだイメージが全てを前に、一切関係ないと。

撮影前夜、旅館の女の子の部屋でなんで自分で剃れないのと思いながら始めた。

コチラも27才の若さ。傷付けないように目の前20・30cmのソコを剃って行くが何処からかワケもなく何かが沸いて来る。

イカン・イカンと思いつつ時が二人を一人にして行く。

翌朝南を向いた岸壁は波が結構な勢いで砕けている。何回も飛ばす訳にはいかない。一発決まればよい。
飛び降りるはいいが岸壁から飛んだとしても、2・3m先の海面に落下したと同時に波によってギザギザの岸壁に打ち付けられる。

西木正明登場だ。
当時は西木の事を《マサアキ》と呼んでいた。

『マサアキさぁ、彼女が落ちて手前の岩に当たって来るから岩に張り付いて彼女を受け止めてくれ』と。でないと傷だらけだ、と。

又、度々の詰まりで又一つ浮かんでしまった。彼女が落ちていく海が真っ赤だったらと。
助手やスタッフに近所のペンキ屋を廻って有りっ丈の赤のペンキを買って来いと。
一斗缶で20数本有ったかなペンキを海にブチ撒く(今思えば考えられない事をする)。
モデルを5・6回飛ばした写真はまあまあ写った、しかし海を真っ赤にと云うのはダメだった。
考えてみれば解りそうなものだが波のある海の表面を真っ赤にするには5万tonタンカーでも引っくり返さないと無理な訳で此処でも浮かんだら引かないリスクが・・・。

 

後日談だが西木が撮影が終わり家に帰り風呂に入った西木を見てかみさんから『アンタ何をして来たの』と言われたらしい。

背中は擦過傷だらけに頭や背中にペンキのカスだらけで・・・。
西木とは他にも色々な撮影があったな。アノ時はサスガの西木も言ったな『加納いい加減にしろ』と。

 

41年も前のこと時効とはいえ国立公園に火を放った。

 

事細かに場所は覚えていない、何せ41年も前の事である。

しかし何処其処の国立公園だったのは記憶にある。平凡パンチのヌードグラビアの撮影で関東の何れかとしよう。

パンチの編集者として一緒だったのが現直木賞作家西木正明で撮影も進み新たな場所に移動した。其処は一面のススキが原だった。

 

コマーシャルフォトの撮影は殆どが事前のミーティングでコンセプトが決まりディレクターやコピーライター等チームが大体若しくは綿密なラフスケッチを起こし、写真家は其れを持てる技術とセンスをスープアップして撮る訳だが、殆どがチームの合議の上の条件付けられた撮影で写真家としては時に自らのオリジナリティを発揮し難く、技術売りなのが多い。

中にはクライアントの商品のコンセプトなりを外さない限り好きに撮って下さいと云うのがあるが、写真は第一に記録し複製すると云う機能故のアートであるのか、単に技術に過ぎないのか明確に位置づけられた事は無い。

だからと云う事も無いが、写真には色々写真家の個性に依って建築写真・女性写真・CM写真・フード写真・動物写真・報道写真・スポーツ写真・風景写真・等々、多様なジャンルに専門家して行く。

後年CMも含めコマーシャルフォトも随分と撮った。色々在るがパルコのCMとポスターで内田裕也さんをNYで撮ったのは諸々大変だったが面白かったな。何時か又その顛末を。

雑誌のヌード撮影となると大抵は何処かしこで撮ろうと云う事ぐらいで、後は私が現場の色んなシーンの前で次々に発想して撮って行くのが普通である。

さて西木との撮影行の時のモデルはファッションモデルもしていた娘で裸は初めてでは無かったかな。大きな瞳に長身のスキニーな体をしていた。

一面にススキが広がり季節は秋も深まっていたと思う枯れたススキの群生が風に煽られうねっている。

ススキの中に見え隠れさせてモデルを立たせ服を着たまま建たせてみるが、どうもピンと来ない。

どう撮るのか見ていた西木に 『正明!ススキに火を点けろよ』

西木一瞬目を瞬いて言った『加納!此処は国立公園だぞ。』

西木正明と云う男、早稲田の探検部創立に関わったひとりで自身学生時代にコッツビューと云うアラスカの西端に暮らしながら冬期にソ連邦へ犬ぞりと徒歩で渡ろうとしていた。冷戦の時代一朝一夕な事では無かった。

だからと云う訳ではないが、国立公園と名の付いたエリアの意味を私と違い知っていた。私はと云えば只の観光地じゃんと云ったノリで確かに火を放つのはヤバイかなと感じたが、兎にも角にも撮影現場の加納典明というのは世間の常識とか慣習とか諸々世の理と云うのを全く其の脳には機能していなかった。
或るのはイメージのみ。擦った揉んだしながら結局西木が折れて火付けをすることになった。
記憶では近い冬のせいか通る車も無い道から私が構え、道路ッ端から背丈かそれ以上の高さに伸び寂しげなベージュ色のススキの中にモデルを立たせる。

立っているモデルに火が行ったんでは話しに成らない訳で、モデルの周りや風向きを考えススキを払う。
勿論ススキを刈る鎌など持っている訳も無くカッターナイフで助手が刈るのをフレームしながら指示する。

茫洋と広がるススキが原に風上から火を放つ。

モデルの立つ手前7m位、後方15m位左右に夫々15m位のスペースをフレームとして燃やし、左右後方は4m位の緩衝地と云う訳ではないが火が広がらないように防火帯としてススキを刈る。

モデルを立たせカメラを構える。

この日に限って35mmカメラを持ってこなかった。

火の廻りはアッと云う間だろうし、数は撮れない6×6のハッセルブラッドではフットワークが悪いし数が撮れない。

炎を止めて撮ろうとするには500分の1以上のシャッタースピードはいる。しかし秋深い午後の空は光量が乏しい。しかしこの先は四の五の言ったって仕方ない前進あるのみ。

事はアッと云う間に進んだ。火の廻りと云うのは想像以上に早かった。モデルと云うのは、色んな有り得ない様な状況で仕事する事には慣れているとはいえ、ススキが燃え盛る真ん中に立つなんて始めての事だろう目には小さな恐怖と疑念が過ってた。しかも裸で。

私の助手達への怒声と、モデルにポージングのアレンジを促す声が修羅場に響く。

其れでもブロニー5、6本は撮ったかな。OKを出し広がった炎を消しに掛かった。是が事だった。
何と言っても枯れたススキに火を付けた訳である。みんな途中から消し切れるのかと云う思いが有った筈だ。
大活躍の助手に遂には体ごと火の上をゴロゴロと転げ回れと指示する
あれはガジロウと呼んでいたガッツだけは人一倍の助手だった。着ているジャンパーを頭迄たくし上げ転げ回る。西木は何処に有ったのか竹箒で叩きまわっている。
2、30分だったと思う。火は黒こげにぶすぶすと白い煙を風が運んで行く。地面から消えてなくなった。
ガジロウは足首が水膨れになって其れ也の火傷を負っていた。
西木と顔を見合せながら約30m四方の焼けた跡を見渡す。ふうぅ、終わった。

 

何時も、先の海撮といい、此の火撮の様なヤバイ撮影をしてる訳ではなく、此れ等は一寸忘れにくい顛末故に結構克明に記憶している。
キャリアと年の所為か今はこんな事はしないだろう・・・でも目の前の景色が私を呼んだら・・。

 

 

 

或る日、西麻布の事務所に二人の男がやって来た。

1人は劇作家・清水邦夫、もう1人は田原総一郎だった。

清水は先鋭的な劇作家として知る人ぞ知る気鋭の人物で田原も既に政治評論家としての評価は新しいタイプの人物とされていた。

 

二人は早稲田の同期生で、学生時代から何時か映画を作ろうと云う約束があったらしく其の為に私の所にやって来た。

主役は石橋蓮司で話しのキーになる1組のカップルをキャスティングする中で其の恋人の男の役を探していて、何故か私が全くの素人にも関わらず候補に上がったらしく見に来たと云う訳である。

 

初対面の二人は世間話をしながら明らかにジロジロと私を品定めしていた。

確か映画の話しもして其の時には決めたようだった。

後にスタッフの誰かが、典明さんの前に日大全共闘のトップ秋田明大が候補に有ったらしいが、明大は断ったらしい、と言っていた。

当時の清水邦夫に田原総一郎の思想的立場からすると明大は恰好なターゲットだったと思えるが、その後の明大は人民の海に溶込み一切表立った動きはしていない。

一つには私も些かの経験が有るが、明大も可成りの頻度で当時は桜田商事に引っ張られている筈で、官憲と云う資質を通った者にしか解らない、有に付け無に付け精神的に刻印として遺るモノが有って、事の大小はあれ、その後に消えない残滓として影響する。

 

相手役の女の候補にと言って写真をみせてくれた。

桃井かおりとハーフの確かモデルだったと思うが女だった。

どちらが典明さんは好いと思うか問われ、ハーフの娘がと言った覚えがあるが結果は桃井かおりになった。

 

シノプシスと云うか荒筋はあったが決定稿は無かったと思う。モノクロでカメラワークも手持ちでと、シーンの全てをロケとし行く先々で出くわす事に依り取り入れて行くと、多分に映画「勝手にしやがれ」で有名な ジャン・リュック・ゴダール の手法でと言う感じであった。

主役の石橋蓮司が演じる流離の“こそ泥”兄さんが、とある街に流れて来て其処で出会ったあらかじめ失われている恋人達を通し、言葉が時代にとって如何に空しく結局不条理でしかない事を突いく・・・って話しで石橋蓮司唯一の主役映画で連司 大活躍である。

私はと云えば何れ映画は撮る事になるだろうし、役者側に立って一度経験しておこうと云う理由もあり、ロケでスケジュールを1ヶ月下さいと云う事で既に一夏 の稼ぎはしていたし問題はなかった。

事前にかおりと私には台詞がなく東京での稽古とか顔合わせもなくロケ地の石川県羽咋に向かった。

桃井かおりデビュー作、石橋蓮司初主役、加納典明本格的には映画初出演の製作が始まった。

太陽降り注ぐ日本海での一夏の映画作りは20代のメモリーの1つとして嫌が上にも忘れ難く残っている。

 

 

撮影は石川県の羽咋と云う海岸がバスが走れる程の硬い砂浜で、其れが何キロも続いている町で、一軒の旅館を一ヶ月貸し切りにして、オールロケでの映画作りだった。
タイトル 《あらかじめ失われた恋人達よ》 であった。

当時、新宿にアートシアターギルドと云う劇場があった。今で云うと伊勢丹の道をはさんで東側にあったと覚えているが、土方巽や寺山修司に唐十郎達がアンダーグランドの旗手として表舞台に表出しだしたころで、似非表文化に対し反体制人が新宿をグラウンドに夜に昼に活躍していて、その場の1つが新宿ATG劇場だった。確か、あらかじめ・・はATGの出資と箱での始まりではなかったかな。

 

撮影はドキュメントしながらと云う話しも有って時折シナリオと関係ないカットも撮っていた。

海岸での撮影の時に、近くの砂浜に浴衣姿の水死体が上がり蓮司とかおりと私を入れ込んだカットが欲しいとかで水死体の側に行った。
顔面は魚が突いたのか骸骨が露出している、全身白蝋化して膨らんでいる、人間は最早なく只の物体と化していた。
かおりが気分が悪くなったと見えて吐き気を催していた。自殺体との事だ。

 

一日の撮影が暮れる太陽と共に終わり、海岸での片付けをするスタッフを後に傾いた夏の日本海の穏やかで間延びした夕日を背に蓮司とかおりと私は一足先に旅館に向かう。
丘を登り夏休みで誰もいない小学校だか中学校だかのグラウンドを3人は横切って行く。
かおりが一歩前を行く、其の若い後ろ姿を眺めながら何とは無しに蓮司と私の目が合った。
丁度グラウンドの真ん中辺りだった、男2人はかおりに襲いかかった・・・・。

キャーア・・ヤメテ・ダメ・ヤメテッタラ・・・。

かおりが嬌声を上げる。夏の誰もいないグラウンドで、端から見たら何やってんだろうって・・・・。
勿論、蓮司と私にかおりもお遊びと解っているけど、ヤリ方、マジっぽいから笑えて仕方ない、本当にもう・・と、かおり。
男、2人大笑い。
暮れて行く夕日も笑いながら落ちて行く。

 

殆ど毎日だったと思うが夕食が終わると、主立ったスタッフ・キャストでその日の撮影の話しになった。
蓮司に緑魔子に蟹江敬三、今や大演出家の蜷川幸雄。蜷川さん此の映画では台詞無しの警察官役でぽっぽっと歩いているだけのエキストラだった。蜷川さんは話し合いには一度も出なかったと記憶しているが、田原さんに助監督にかおりは毎日は居なかったかな。当時ヴェトナムも終わっていなかったし、反体制派は当然と云うか畢竟と云うか左傾化していた。当然、論理的論破力は半端でなく大体、田原さん毎日吊るし上げられていた。

最後には、田原さん、オレ解んないのだよ、となり、そうなるとノンポリの私もよせば好いのに、其れは無いよと話しに入って行った覚えが或る。
当時はみんな真剣だったのに、今思うと、実に可愛いものだ。

 

大型の免許も持っていないのにボンネット型の8トンダンプをかおりを荷台に蓮司を運転席の外に飛ばしたシーンとか、日本海に向け5m位の崖から素っ裸で小便をして、その海にジャンプとか、夜中の砂浜の波打ち際でかおりと裸で絡むシーンで発育盛りのかおりが少々重かったこととか、全身に銀粉を塗り皮膚が呼吸出来ないのか身体が熱くなり不快が過ったりと、私の参加のテーマであった若い役者の演出される側の心理等どこかに消え、何だか半分遊んでいるようだなって感じであった。要は、どう何処迄ノルかノセられるかで、後は脚本解釈にノル側もノセル側も人間て者を何処迄知っているかに尽きるかな。

 

モノクロームの此の映画、TUTAYAで今も有る筈で蓮司もかおりも私も28才の若い姿で些かの面映さを思いますが見て下さい。

面白くは無くとも単なる娯楽とは違います。

 

 

 

 

26才の秋に個展《FUCK》で世に出た私には色んなメディアから、アレをやってみないかコレをやってみないかと引きも切らずに誘いが有った。

今では目新しくも無いがクロスオーバーとかマルチとかで、ラジオのDJ・TV・映画・音楽・小説・等々色んなジャンルに関わった。

 

20代の終わりには相変わらず夜は新宿2丁目に居た。Nadjaと云う名のバーに入り浸っていた。

ママはマリコといって元は銀座のクラブに居たのを或る芸能プロ関係者の引きで新宿にカウンターだけのバーを開けたのだが、マリコの只の女とは一味も二味も違うタッチや言質に引かれ多くの此れ又一筋縄では行かぬ人達が集っていた。

寺山修司・土方巽・唐十郎・李礼仙・金子国義・田辺茂一・生島治郎・筒井康隆・金井美恵子・五木寛之・沼正三・萩原朔実・四谷シモン・高梨豊、、、数え上げたら切りなくあの人がと云う程の多士済々な面子がタバコの煙渦巻く中でダルマを空けていた。

名前からすると結構な人達だがサラリーマン的な人は少なかった。

アンダーグラウンド若しくは正当派的な人間と云うより癖の強い斜め人間が多かったな。

最もポピュラーな人と云えば五木さん位で、何か曰くありげな感じのする人が多く、いきなり普通の人が入って来たら店の雰囲気に結構な違和感を感じたと思う。

カウンターの中に居るバーテンのヨシオとケンジはゲイだし特殊世界と言ってよく、あんなバーはもうどこを探しても無いだろうな。

 

毎日のように深酒をし、くだをまき、ちょっといやな奴がいると絡みしょうもないガキだったに違いない。

いい加減、酒と喧々諤々の渡り合いに飽きるとウィスキー片手に店を出て直ぐの角を左に曲がると、右手にヌードスタジオという怪しい店が有って、オバサンが、お兄ちゃん寄っていかない、と呼び込んでいる。

其れも仕方無しな感じで冷めた浮遊感が漂っている。

ヌードスタジオと云っても貸しカメラが於いてあってモデルとは程遠いオバサンが裸になるのだが、面倒なのか下半身をパッと捲り上げアソコを見せる。当然カメラにフィルムは入って無い。何処をどう生きて来たのかアンダーグラウンドな気配のオバサンと話し込む。荒木や森山にピッタリのシーンなのだが連中撮ってないのかな。

其の常連の中でスキオさんと云う人が居た。今は無き中央公論社が出していた純文学誌《海》の編集長・吉田好男・さんだった。

彼の考えに映像に関わっている人間に小説を書かせてみたいと有ったらしい。 相変わらず酔いに任せてなんだかんだと話す私の言質が面白いと思ったのか結構酒が回っている私に言った。典明さん小説を書いてみない?と。

小説か確かに些かは乱読に任せ本は読んだが多寡が知れてる。血の代わりにアルコールが巡っている頭が言った。でどういう話しが欲しいのと返すとスキオさん、川上宗薫に梶山季之の世界かなと。 ああ、ヤリ話ね、と答え一瞬を於いていいよ、と答えていた。

私のNadjaでの日頃の言動が面白いと思ったのか、確かあの頃写真家の高梨豊さんが文学に興味を持っていた筈でよく顔を合わせていたから高梨さんに言えばとか思ったが、例の何でもやってみようが引き受ける事になったが、其れにしても純文学誌とはねえ??。

 

テーマは新宿であった。

海・臨時増刊・新宿小説特集号・といって巻頭のモノクログラビアは若き五木寛之さんが夜と夜明けの新宿をオープンにしたジープで走るカットなんかが有って著名な作家が並んでいた。

酔いに任せてスキオさんに・作家さんて軽井沢とか行って書いたりするんだよね・と。彼答えて・どうぞどうぞ軽井沢には社の寮がありますから、テニスコートも付いてますよ・そうか面白そうだなと思いが巡るガキ丸出しである。

予々小説を書こうとかテーマとか0に等しく何の準備も無く只新宿を舞台に、其れこそぶっつけ本番で原稿用紙を前にすれば何か出て来るだろうのノリで、軽井沢に向け小学校5年からの彼女で23の時に結婚した女房と3才になった長女を連れて何日掛かるかも決めずに出発した。

 

小説《オ××コ》は2つ問題を抱えていた。

1つはタイトルが幾ら何でも純文学誌に此のタイトルは問題視されるだろうと。

2つ目に400字の原稿用紙40枚に行間字間の全くない、酷く読み難い原稿だった。

2日間で一気に書き上げ原稿用紙40枚とはいえ実際には45枚から50枚近くの原稿だった。

後にフランスの作家誰だか忘れたが《ラカン・ラカン》という小説に行間字間のない書き方をしているのがあった。

2つの問題に対しスキオさん日頃の飛びっぷりが伊達ではないとばかりに其のまんま本にした。私に変更をと来たら即出さないと決めていた私は、面白い是でなくちゃな編集者はと悦に入っていた。

案の定と云うか週刊誌を始めメディアが取り上げ作家・石川達三・さんが中央公論社にアレは何だとクレームを入れたとか何人かがとやかく有ったらしい。

筒井康隆さん金井美恵子さんはNadjaで知らない仲ではなかったせいか、悪く無いよとか、金井さんは・典明サンの写真に似てるねとか若干の評価をしてくれた。

公論社軽井沢寮には私達3人にお手伝いの人が1人居たかな閑散としたものだった。2日間で400字40枚は結構深夜まで掛かったがテニスコートに出てテニスごっこもした。 Sどうと云う事は無いのだが忘れない記憶が或る。

3才の長女をコート脇のベンチに座らせておいたのだが、どちらかが打ったボールが娘の方に飛んで行った。麗子ちゃんボール取って、と言うと3才はベンチから下りてスタスタと子供歩きしてボールの手前3m位で何を思ったか首から下げていた小型のカメラで転がって止まったボールをファインダーを覗きパチリと撮った。

親バカには違い無いがボールを取ってと撮ってを3才の脳はどう受け取ったのか如何にもボールの前で立ち止まった感じに意志を思った。

其のモノクロの写真は今も或る。

3才の子も先日44才になり4才の男と女の双子を育んでいる。

 

小説[オ××コ]、全抜粋はこちらです。
何せ41年も前の事です、些か面映い思いもありますが、読んでみて下さい。

 

 

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